大判例

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最高裁判所大法廷 昭和23年(れ)956号 判決 1949年5月18日

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差戻す。

理由

東京高等檢察廳檢事長佐藤博上告趣意について。

本件は所謂占領軍物資不法所持罪につき所持という行爲の個數と一事不再理の原則の適用とが問題となっている事案である。よって、まず一事不再理の原則の本質を明らかにし、次いで、所持の同一性に關し説明を試みることとする。

一事不再理の原則は、刑事判決の既判力の一作用に外ならない。元來判決の既判力というものは一旦判決によって一定の法律關係(刑罰權又は私權等)の存否が確定された以上、原則として、爾後は法律上有効にこれを變動せしめないということをその本質とするのである。それが民事においては裁判所は判決により確定された法律關係については、その判決に接着する口頭辯論終結後の事由によるのでなければ、確定判決の趣旨と異る裁判をなすことができないという裁判所に對する拘束力としての形であらわれている。だから、當事者は確定判決を經た法律關係についても、新たな事由に基ずかなくても、更に重ねて訴を提起し得るのであり、裁判所は、かかる訴と雖もこれを不適法として却下することはできない。この場合裁判所は確定判決の趣旨を尊重して,その内容をそのまま裁判の基礎として各場合の事情に適合する判決を爲すまでのことなのである。一例を擧ぐれば後訴が給付の訴であり、その原告が、給付の訴であった前訴の原告であり、しかも(イ)その確定判決において、勝訴していた場合にあっては、特別の事由--記録の焼失による確定判決原本の滅失というような事由のない限り、既に確定の給付判決を得ているのであるから、保護の利益なきものとして請求棄却の判決を爲すべく、又(ロ)敗訴していた場合にあっては、請求權の不存在が既に確定されているのであるから、新訴についても再び請求棄却の判決を爲すの外はないのである。然るに刑事においては、公訴は獨り檢事のみがこれを提起するものであるから、確定判決を經た事件については、有効に再起訴ができないものとし、又裁判所も、これについては免訴裁判を爲すべきものとさえして置けば確定判決の既判力は維持せられるのであり、それに人權擁護の意味も加わり、判決の既判力も民事の場合とその姿をかえて、一事不再理の原則という形をとったのである。だから一事不再理の原則は判決の既判力の一作用に過ぎない。然るところ、民事においては一個の權利關係の一部について訴を提起することが認められている。例えば一個の消費貸借から発生した金一萬圓の貸金債權につきその一部である金五千圓だけの返還請求の訴を提起し得るが如きである。この場合この一部の貸金債權につき確定判決があったとしても、その判決の既判力は現に裁判の對象となった金五千圓の部分についてしか発生せず、訴訟物とされなかった殘餘の金五千圓の貸金債權については、既判力は及ばないのである。勿論その全部に既判力を生ずるとする学説もないわけではないが通説ではない。これに反し、刑事においては人權擁護の見地から檢事は一罪の一部について起訴を爲し、他の一部についてはこれが公訴を他日に保留して置くというような措置をとることが許されないと解されている。所謂公訴不可分の原則というのがそれである。例えば一個の窃盗行爲で衣類と金錢とを窃取した犯人に對して、その衣類の窃盗のみについて公訴を提起し、金錢の窃盗については、その公訴を他日に保留して置くというが如きである。從って假りに檢事が設例のような公訴を提起したとしても裁判所は檢事の保留にも拘わらず、衣類の窃盗と併せて金錢窃盗の部分をも審理し判決を爲すことができると解されている。かくて、不告不理の原則の例外を認めるかのように見えるのであるが、実は一罪の一部につき公訴の提起があった以上その全部につき公訴の提起あったものと見ようというに過ぎないのである。この事は、檢事が故意に一罪の一部につき公訴を保留した場合のみに限定されるものではなく、設例の場合起訴當時においては衣類の窃盗だけしか発覺していなかったため、この部分のみについて公訴が提起され、裁判所の審理中に殘餘の金錢の窃盗が発見されたというようなときにも亦同様に取扱われるのである。しかし、その反面、右金錢の窃盗が裁判所の審理中にも発見されず遂に衣類窃盗の點のみについて判決が爲され、金錢窃盗の點については全然審判されなかったような場合においても、この判決の既判力は、金錢窃盗の部分にも及ぶものとせられ、一事不再理の原則の適用を受けることとなるのである。かように一面不告不理の原則を後退させると同時に他面一事不再理の原則を前進せしめることとした所以のものは、かく被告人の利害を裁判上按配することによって、一罪の一部につき不當に刑を免れるもののないよう適當な措置を講ずると共に、檢事の起訴のやり方によって一罪につき數度に亘って處罰される危險から被告人を救濟して、人權擁護の理想を現実のものとしようとしたに外ならない。この事は人類多年に亘って幾多の犠牲を拂って贏ち得た刑事裁判上の體驗の教うるところなのである。なお所持というような繼續する状態が處罰される犯罪にあっては、一回の行爲によって完結し得る既時犯例えば窃盗罪のような犯罪と異なり、時間的關係においても、一罪の一部ということが考えられるのである。すなわち窃盗罪の場合前掲設例のように衣類の窃盗と金錢の窃盗とに區分することを幅員的關係の區分というならば、所持罪の場合にあってはかかる關係の區分の外に、延長的關係の區分ともいうべきものが考えられるというのである。一例をあぐれば昭和二二年一月一日から同年二月末日迄占領軍に屬するペニシリンと靴下とを一括して不法に所持していたものがあるとする。ペニシリンの所持罪と靴下の所持罪とに區分するのは幅員的關係に一罪を區分することであり、これに對し、昭和二二年一月一日から同月末日までの所持と、同年二月一日から同月末日までの所持というように區分するのが延長的關係における一罪の區分なのである。そしてこの両種の區分は競合的にもこれを爲すことが出來る。一罪の一部を區分して公訴を提起することを認容すれば、檢事の起訴のやり方によって一罪につき數度に亘って處罰される危險に被告人をさらすであろうということはそれが幅員的に一罪を區分する場合であると、延長的にこれを區分する場合であるとによって、その理を異にするものではない。否延長的に一罪を區分する場合の方が、時間的關係なるの故を以て無限にこれを區分し得る關係上、その危險は幅員的區分の場合に比して更に一層大きいということができるかも知れない。一罪を延長的關係に區分することに關しては、最近廢止された連續犯について、既に多くの判例が存在している。更に所持罪が、繼續性を有し、延長的に區分し得るということと一事不再理の原則の適用とに關して言及しなければならない問題がある。それは一個の所持罪につき、確定判決があったにも拘らず、その後なお依然として、その所持罪が繼續して犯されている場合、この判決後の延長的一部についても、一事不再理の原則が適用せられるかどうかという問題である。かかる事態は、數個の所持禁止物件を一括して所持されているとき、その一部の物件の所持についてのみ確定判決があり、爾餘の物件に對する所持が依然繼續せられている場合、若しくは一定の物件の所持罪につき確定判決があったのであるが、その物件を沒收する等、これを取り上げる措置が講ぜられなかったため、爾後も同一物件の所持がそのまま持續せられているような場合に起り得るのである。しかし、刑事判決はその基本となる辯論時における既存の犯罪事実に基ずく国家刑罰權の存否を確定するものであるから、判決の既判力も亦當然にかかる刑罰權の存否の確定に限界せられなければならない。そして、一事不再理の原則は判決の既判力の一作用に外ならないのであるから、この原則の適用せられる範圍も亦判決の基本となった既存の犯罪事実に限定せられなければならないのである。すなわち、一事不再理の原則の適用に關しては、確定判決を限界として一罪の一部が延長的關係において區分せられるということになるのである。要するに、問題は繼續する状態を内容とする所持罪の特殊性に關連するのである。だから、次に少しく所持という行爲の本質を檢討し、その個別性、同一性について考究してみたいと思うのである。

物の所持とは、人が物を保管する実力支配關係を内容とする行爲である。人が物を保管する意思を以てその物に對し実力支配關係を実現する行爲をすれば、それによって物の所持は開始される、そして一旦所持が開始されれば爾後所持が存續するためには、その所持人が常にその物を所持しているということを意識している必要はないのであって苟くもその人とその物との間にこれを保管する実力支配關係が持續されていることを客觀的に表明するに足るその人の容態さえあれば所持はなお存續するのである。だから所持は人が物を保管するためその物に對して実力支配關係を開始する行爲と、その実力關係の持續を客觀的に表明する容態とから成り立っているというべきである。人が多數の物を同時に所持する場合、人と物との間にその物の個數に相當するだけの実力支配關係が存在することはもとより多言を要しない。しかし所持を行爲乃至容態として(これを開始する行爲とこれを持續する容態として)觀察するとき、その個數は必ずしもその物との間に存在する実力支配關係の個數すなわち物の個數と一致するとは限らない。それは一個の所持という行爲乃至容態によって二個以上の物が包括的に実力支配關係の下に置かれ得るからである。さりとてまた同一人が同時に數個の物に對し実力支配關係を有するのであるから、常に必ず一個の所持しかあり得ないともいえない。それは所持という同種の内容を有する同一人の二個以上の行爲が同時に存在することが、あり得るからである。これを要するに所持という行爲乃至容態が一個あるのか、數個あるのかを決定するのは、必ずしも人と物との間に存在する実力支配關係にあるのではなく、その行爲乃至容態そのものの形態が社会生活上有する個別性的意義にあるといわなければならない。そしてこの社會生活上における行爲の個別性的意義はかかる數的衡量を必要ならしめる社會生活上の要求に立脚して殊に所持を犯罪として觀察する場合においては、その刑罰法規手續規定等の立法の目的に立脚してのみ、正當に理解し得るのである。だから所持の個別性を決定せんとするにも、かかる觀點に立ってその行爲乃至容態の形態を、内心的、物理的、時間的、空間的關係はもとよりその他各場合における諸般の事情に從って仔細に考察して、通常人ならば何人も首肯するであろうところ、すなわち社會通念によって、それが人と物との間に存する実力支配關係を客觀的に表明するに足る個別性を有するか否かを究め、そこに、個の所持があるか、數個獨立の所持があるかを決定しなければならない。例えば人がその自宅に多數の所有物を漫然と保管するとき、そこに何等特別の事情の存在しない限り包括的に一個の所持があると見て差支えない場合が多いであろう。これに反して或る種の物を特に他の物と區別しこれを秘密室に隠匿保管しているような場合にあっては、犯罪捜査というような立場からは、その物の所持を他の物の所持と區別して觀察する必要があるのではあるまいか。その他、自宅に保管するものと自宅外の店舗に保管するもの、自ら保管するものと他人に寄託して保管するもの、内地に保管するものと外国に保管するもの等の間においては、もとより各場合の事情にもよることではあるが、一般には社會通念上それぞれ別箇獨立の所持あるものと認められる場合が多いのではあるまいか。いうまでもなく、所持は繼續する状態であるから、所持の繼續中、その所持人の新たな行爲乃至容態によって所持の個數に變動を來たす可能性がある。例えば時を異にして數個のものの所持を開始した場合においては、その當初にあってはその物の個數だけの別個の所持があると考えられるのであるが、後にそれらの物を一括して保管するに至れば爾後は唯一個の所持があることとなるであろう。これに反して、當初一個の所持により包括して保管されていた數個の物が、後に分割して保管せられるに至ることもあり得る。この場合、人と物との間に存する実力支配關係は依然保持されるものであることは勿論であるが、行爲乃至容態としての所持の同一性については、これとは別個に考えられなければならない。すなわち、所持の同一性の異同は、前段説示の如くその保管を分割する際における所持人の爲した行爲の形態如何によって定まるのであるが、(イ)或は所持の同一性について何等の異同を生じない場合、(ロ)或は分割保管された物についてのみ別個獨立の所持が開始し、他の物については從來の所持が同一性を失わず存續する場合、(ハ)從來の包括的所持が分割保管の瞬間に消滅して爾後は各獨立した數個の所持が新たに開始する場合等が假想せられるのである。そして右のうち普通最も起り得るのは(ロ)の場合であろうと思はれるのであるが、要は分割時における所持人の行爲が社會通念に從い新らしい所持の開始と認められるか否かによって決定せられる問題である。

本件において原審の確定した事実によれば「被告人は本件第二事件の物件である靴下二八足を昭和二二年七月頃から九月頃までの間に、同ペニシリン九五本を同年九月末頃それぞれ入手し、第一事件の物件である婦人服一着他衣類食料品等計三九七点と共に一括して所持していたのであるが、同年一〇月七日關係官憲の家宅捜査を受けた際、密かに第二事件の物件を他に隠匿してその発見を免れ第一事件の物件のみをその押收に供し、爾來第二事件物件については、うちペニシリン九五本を同年一一月一五日頃他に賣却し、靴下二八足を同月二五日委託販賣のため他に交付するまで、その所持を繼續していたものである。そして第一事件は同年一二月一三日起訴され、同月二七日有罪の判決あり、當時該判決は確定した」というのである。右の事実關係に、所持の個別性に關し前段説示したところを當嵌めてみれば、被告人は昭和二二年一〇月七日關係官憲の家宅捜査を受けた際、それまで一括して所持していた本件物件の中、第二事件の物件を取り除け他に隠匿してその発見を免れしめたというのであるから、その間の事情如何によっては、被告人はこれによって茲に第二事件の物件について新たに別個獨立の所持を開始したものと見るべき餘地が存在するのである。蓋し被告人のかかる措置行動は、第一事件物件と第二事件物件との所持形態に別個獨立の様相を與へ官憲の捜査を妨ぐるに十分であったことを窺い得るからである。なお本件においては、第一事件物件も即時押收せられたというのであるから所持同一性の變動に關しては、前段説示の(ロ)の場合に該當するか(ハ)の場合に該當するかについては今ここにこれを速斷し得ないことは勿論であるが、そのいずれにもせよ、若し第二事件の物件に對し新たに別個の所持が開始せられたものと認られるならば第一事件における確定判決が昭和二二年一〇月八日以後の第二事件物件の所持罪に對し直ちにその既判力を及ぼすべき理由は存在しないこととなるであろう。尤も該物件についても、同日以前すなわち第一事件物件と共に包括所持せられていた當時の所持罪に對しては、既に第一事件物件の所持につき確定判決があった以上一罪の一部につき確定判決あったものとして、その既判力の及ぶべきことは多言を要しないところである。更にまた同日以後第二事件物件につき、新に別個の所持が開始されたものと認められ得るとしても、その所持罪が第一事件物件の所持罪と連續犯の關係にあったと認められるならば、第一事件の判決の既判力が右第二事件物件の所持罪にもその効果を及ぼすべきであろうことは勿論である。しかし、この場合においてはその間刑法の一部改正によって昭和二二年一一月一五日以後は連續犯の認められなくなっていることに留意すべきであって、假りに第二事件物件に對する新所持罪の同日前の行動について連續犯に關する舊規定が適用せられる結果、第一事件の判決の既判力がその効果を及ぼすものとせられるようなことがあっても、同日以後なお依然として該所持が意識して繼續せられている限り、その繼續犯たる性質上、たとえ、それが一個の行爲の一部であるとしても、獨立した一個の犯罪と同様、反社會性ある行動としての存在價値を具有しているのであるから、法律が連續一罪として處斷することを廢止した以後の行動については、これも連續犯と認めらるべき他の一部から獨立して處罰の對象となし得るものと解するが相當であろう。從って當該部分の行動に關しては不告不理の原則が適用せられ、假りに第一事件當時裁判所において、たまたま、これを発見したとしても、公訴の對象とせられていなかった關係上、これを處斷し得なかったのであり、これと同時に反面、一事不再理の原則はその適用を見ないこととなるから、第一事件の判決の既判力はその効果を及ぼすべきでないといわざるを得ない。(そして本件公訴は右連續犯の廢止せられた日以後の所持のみをその對象としているのである。)さて、かかる見解をとるとすれば、確定判決後なお處罰の對象となった所持が繼續せられている場合と同様、一個の所持が再度處罰の対象となる可能性を肯定することとなるのであるが、檢事の起訴のやり方によって一個の行爲が數度處罰の對象となる場合とは異り、何等不當な結果を惹起するものではなく、又憲法第三九條後段の規定の精神にも反するものではないのである。蓋し憲法の右規定は、繼續犯のような犯罪において、確定判決後又は刑罰法規の改正実施後なお意識的に獨立した犯罪と目せらるべき行動を敢えて繼續するものに對してまでその刑事上の責任を問わないというような不合理を要求する筈がないからである。

人或は本件において被告人が捜査官憲の目をかすめて、隠匿した第二事件物件の所持につき、第一事件の確定判決の効力の及ばない場合のあり得ることを結論することに對し、次のような疑問を抱くかも知れない。すなわち一個の窃盗行爲により衣類と金錢とを窃取した場合、その金錢窃盗の部分を隠蔽して衣類窃盗の部分についてのみ確定判決を誘致したものが、金錢窃盗の部分につき一事不再理の原則の適用を受けるのに對し權衡を失するのではあるまいかという疑問である。しかし、設例の場合は、既に爲された一罪の一部につき隠蔽があったために一罪の他の一部についてのみ確定判決がなされるに至ったものであるが、本件の場合は一個の包括所持罪の全部発覺をおそれその一部を隠蔽するため新たに別個の所持罪を犯し前に成立していた所持罪のみにつき確定判決を誘致したということになるのであるから、両者の間必ずしもその趣を一つにするものではないのである。

然るに原審は、所持の包括性又は繼續性という理論構成の下に、本件第二事件の物件に對する所持が第一事件物件に對する所持とは全然別個の行爲と目せられる可能性あることを究めず、漫然第一事件の確定判決の効力が第二事件の公訴事実に及ぶものとし、免訴の判決を言渡したのであるが、原判決には所持罪成立の法理を誤解し、延いて一時不再理の原則を不當に適用した違法あるものといわざるを得ない。論旨は理由あり、原判決は全部破棄を免れない。

裁判官真野毅の判決理由に關する少數意見は左のとおりである。

本件は、わが国では、新しく時代の脚光を浴びて生れ出た所持罪理論に關する重要な意義を有する一つの案件である。

原判決は、所持とは人が物を支配する状態であるから、同時に同一人の支配内にある物は、総てを包括して一個の所持が成立し(所持の包括性)、又物が人の支配内に置かれた時から支配外に離脱するまで繼續する一個の所持が成立する(所持の繼續性)という基本理論の下に、本件を一事不再理として免訴の言渡をした。しかし、この考え方は、非常に簡明である點において勝れているが、あまりに單純生一本な觀念論に過ぎて実情に適しない憾みがある。

わが国從來の刑罰法規においても、所持罪はいくらか認められてはいた。すなわち、阿片煙又はその吸食器具の所持罪(刑法第一三六條、第一三七條、第一四〇條)、猥せつの文書・圖畫・その他の所持罪(刑法第一七五條)、爆発物若しくはその使用に供すべき器具の所持罪(爆発物取締罰則第三條、第六條)、葉煙草、煙草苗、煙草種子、煙草用巻紙、政府の賣渡さざる製造煙草の所持罪(煙草專賣法第三四條、第五六條、第五七條)、政府の賣渡さざる鹽の所持罪(塩專賣法第五條第二五條)、政府の賣渡さざるアルコールの所持罪(アルコール專賣法第二九條、第三四條)、相當印紙の貼用なき若しくわ納税濟證印の押してない骨牌等の所持罪(骨牌税法第一〇條第一五條の三)のごときものが認められていた。しかしこれらは特殊の物件を對象とする所持を處罰するのであるから、実際にはあまり多く事件も起らず、從って所持罪理論は、刑法理論として注目すべき発展を示さなかったのが、過去及び現在における実情である。しかるに、終戰後は、所持罪の種類及び對象たる物件の範圍が甚だしく擴大されると共に不法所持事件は著しく増加し、その刑罰も比較的厳しいので、所持罪は近時俄かに世人の注目をひくに至ったのである。されば、所持罪理論の展開は、今後の研究に待つべきものが甚だ多いと言わねばならぬ。

さて、所持とは人が物を実力的に支配する状態である。正確に言えば、すべての犯罪は行爲であるという意義において、所持罪における所持もまた行爲であることは勿論であり、この意義において所持とは、人が物を実力的に支配する行爲をいうのである。しかしながら、普通一般の犯罪行爲は、積極的な行動(例えば、殺す傷つける、盗む、恐喝する、横領する)を内容とするが、所持はいささか趣を異にする。すなわち、所持の開始には、通常製造・買取・譲受・その他の收受について積極的な行動を要するのであるが、一旦所持を開始した後は消極的にこれを喪失せしめない限り、所持は時の關係において連綿として繼續する性質を有するものである。だから、これを客觀的に見れば、行爲と言うよりはむしろ状態と呼ぶ方が、わかり易くもあり一層適切でもある。そしてこれは、各個の目的物について、時間的の縦の關係において所持を眺めたものであるが、同一の刑罰法規の同一犯罪の對象たる性質を有する一群の數多の目的物について、空間的の横の關係において所持を眺めるならば、差別觀をもってすれば各目的物毎に各所持が存在するが、無差別觀をもって一定時を基準として觀察すれば、すべての目的物を通じて一定時の所持の状態が存すると見ることができる。そこで、一方においては、時間の關係における縦の所持状態を、他方においては、一定時を基準とする空間の關係における横の所持状態を認識しつつ、両者を結合することによって、はじめてよく一體を形成する所持關係を発見することができるのである。ここが一番大切な勘どころであると言わねばならぬ。若し、分析的に見れば、各瞬間毎の所持、各目的物毎の所持は、何れも所持罪を構成し、從ってその各々の所持が可罰性を有する(例えば、進駐軍煙草一個を貰ったり又は買ったりしてポケットに入れた瞬間に発覺すれば、それだけで處罰される可能性があるわけである)。しかし、これは所持罪の處罰にあたり所持罪の個數が、各瞬間毎の所持、各目的物毎の所持の數だけ複數に存在するという考え方を是認するものではない。かかる幼稚な單純な説では、永く繼續した所持については無數の所持罪が存在することになりその罪數を決めることは殆んど不可能となるばかりでなく各目的物の數だけ所持罪の數があるというのでは、被告人は對する處罰は不合理に加重される不都合な結果を來たすから、採るべからざることは明白である。

そこで、所持罪の一罪すなわち單一性をいかに定むべきかが、問題としてここにクローズ・アップされる。原判決のように繼續性・包括性の翼を無制限に擴げきって、各瞬間毎の所持・各目的物毎の所持を、悉く大包容したただ一箇の所持を觀念するにおいては、たまたま起訴の際発覚した目的物の所持は處罰されるけれども、蔭に隠れた又はわざと隠した目的物の所持は、一事不再理で處罰を免れ、その後においては大手を振って所持することができる不都合な結果となる。また悪賢い者は、最初から計畫的に大量の目的物を入手した上、殊更に術築を弄して小量の目的物につき輕き處罰を誘発し、巧みに他の大量の目的物の所持について處罰を免れ得る結果をも生ずるであろう。かかる結果は、所持罪を處罰する立法目的から見て、甚だ不都合・不合理であって到底許容することができない。この意義において原判決の見解は、所持を罰する実情に適しないものと言わねばならぬ。

次に、檢察官の上告趣旨は、「數個の物が或る時期において同時に同一人の支配内にあった場合において、その支配關係は法律上數個の所持と判斷すべきか、或は包括して單一の所持を構成するものと認定すべきかは、これらの物の種類・所持の場所・所持の始期・終期、或は所持の原因・目的乃至動機・支配權限の法律上の根據その他所持に關する物理的・心理的諸要素を総合して、社會通念に照らし健全な常識を以て具體的に判定すべき法律問題であって、原判決のごとくいわゆる所持の包括性並にその繼續性というような理論をもって抽象的に論斷すべきものではない」と主張する。そして、多數説は、ほぼこれと同じ流れに沿うて、「社會生活上における行爲の個別性的意義は、かかる數的衡量を必要ならしめる社會生活上の要求に立脚して殊に所持を犯罪として觀察する場合においては、その刑罰法規手續規定等の立法の目的に立脚してのみ、正當に理解し得るのである。だから所持の個別性を決定せんとするにも、かかる觀點に立ってその行爲乃至容態の形態を、内心的・物理的・時間的・空間的關係はもとよりその他各場合における諸般の事情に從って仔細に考察して、通常人ならば何人も首肯するであろうところ、すなわち社會通念によって、それが人と物との間に存する実力支配關係を客觀的に表明するに足る個別性を有するか否かを究め、そこに一箇の所持があるか、數個獨立の所持があるかを決定しなければならない」と述べている。しかし、これらの見解は、いかめしい盛沢山な実に雜多な基準を漫然と並べ掲げているに過ぎず、少しも明確な基準を示していない。またこれを示すことは、甚だ困難なことである。從って、これを実際に適用していく場合には、事実審でも法律審でも、不便この上なく極めて非実際的・非現実的である。結局、各場合の諸般の事情に從い社會通念によって所持の數を決定すべきだというに歸するが、それはつまり普遍妥當性に從って所持の數を決めよということであり、さらに煎じつめると理性に從って所持の數を決めよということになる(けだし、われわれの理性は、哲学的にはその根抵に普遍妥當性を前提として認められており、普遍妥當性を認めなければわれわれの理性は成立しないからである)。そうだとすれば、すでに理性をも含む良心に從って常に行動する裁判官に對しては、所持の數を決するについて理性に從えと言ってみたところで実質上は何等の基準ないし指針を示していないというも過言ではない。また、所持の數を決することは、一々具體的事実に基き判定されるべき法律問題となり、面倒な所持の戸籍と經歴と歴史を具体的にせんさくしなければ所持の數は決められぬわけであり、これを確定して所持罪の罪數を決めなければ併合罪の數が定まらず處罰ができないこととなり、この罪數の決め方に間違があればすべて違法となり上告は理由があり原判決は破棄されることとなる。かくては、所持罪の處罰には、その罪數を決めることが、甚だ骨の折れる面倒な事柄となる。しかも、何の実益があるか。事実審と法律審に有害にして殆んど無益な負擔と手續を課するに終るだけのものではないか。さらに、これを決すべき内容的な明確な基準は、前述のとおり何等示されていない。それ故、実際の適用に當っては幾多の疑問が續出することは、容易に豫見ができる。多數説の設例では、秘密性と他室、自宅と店、自己保管と他人に寄託した保管の所持は、一般にはそれぞれ別個獨立の所持だという。そこで、多數説に從えばイ乃至ヌの十箇の品を(一)最初自宅に保管し、次に店に移し、次に他人に預けると三箇の所持罪となる。(二)次に店に移し、次に自宅に移したら、二箇の所持罪が加わるのかどうか。(三)次に内イ乃至ホの五品だけを秘密室に移し、次に店に移し、次に他人に預けるとさらに三箇の所持罪が加わるのかどうか。(四)次に、内ヘ乃至ヌの五品を店に移し、次に他人に預けるとさらに二箇の所持罪が加わるのかどうか。(五)所持者の知らぬ間に家族や使用人が保管の離合集散・保管換を行った場合に、所持罪の數に變更があるかないか。(六)所持者の意思に反してこれらが行われた場合どうなるか。(七)買ってポケットに入れた物の所持と前から家にある物の所持は一つか二つか。(八)腹巻に隠している所持は獨立の所持であるか。(九)天井裏と椽の下と倉の中の所持は一つか二つか三つか。(一〇)物置の所持は獨立所持か。(一一)木箱に入れて包装してこれだけ別に保管しているときは獨立の所持か。(一二)鍵をかけて金のトランクに入れてある物は獨立の所持か。(一三)從來十箇の物を所持して五箇の物を他人に預けたら所持は二つか三つか。等々。以上の極めて簡單な事例をとってみても疑問百出である。ましてや、これが複雜な取引として大量にしかも頻繁に動かされる場合に、多數説のような基準で所持の數の變動をどうして正確に定めることができようか。所持の數をきめる社會通念なぞいうものは、実證的・經驗的に見て社會のごとにも存在していないと見るが相當である。所詮、多數説の考え方は、本來簡便なるべき所持罪處罰を規定した根本の立法趣旨を正しく理解しないものである。この點については、今少しく卑見を述べてみたいと思う。

終戰後のあわただしい法制の變革を大觀するとき、われわれの最も注意しなければならぬことの一つは、プラグマティズムの哲学思想が、法令のそこここに採り入れられ、暁の鐘がわれわれの迷夢を破ろうとしている現実を感得することである。手近に二、三の例を拾ってみよう。(一)まず、最高裁判所の「裁判書には、各裁判官の意見を表示しなければならない」(裁判所法第一一條)と規定された。從來は長い間一元論的な哲学思想の流れを受けて、裁判というものは是が非でも無理やりに一本に纏め統一ある姿に仕上げなくてはならぬものとされていた。しかるに、ここには各裁判官の意見が、現実の問題として互に相岐れた場合には無理に一つに纏めず、現実が多元的である以上その多元性をそのまま率直に認めて行こうとされたのである。これは、まさにプラグマティズムの思想である。かくて、少數意見の発表は、全く自由となり、最高裁判所判事は文字通りその良心に從い獨立して裁判に關與し、獨自の意見をそのまま率直に公表することができるのである。米国においては、卓越した裁判官の示した幾多の勝れた少數意見が、やがて數年・十數年・數十年の後には、多數意見となりロー・オブ・ザ・ランドとなっていったことは、すでに多くの經驗の実證するところである、私は、この制度が、わが司法の進歩と発達に、貢献するところ多いことを信じて疑わない。(二)次に、有毒飲食物の販賣等の禁止違反の罰則においては、「過失に因り同條の規定に違反したる者亦同じ」(有毒飲食物等取締令第四條)と規定された。從來の刑罰法の傳統においては、刑事責任を故意と過失に分ち、一般に故意犯は重く罰せられるが過失犯は軽く罰せられるものとされていた(例えば、故意による殺人に對しては死刑又は無期若しくは三年以上の懲役、過失致死に對しては千円以下の罰金)。しかるに、ここでは有毒飲食物の販賣等を禁止し、人の生命・身體・健康を保護し、社會安全を保障するためには、經驗に照らし事物の性質上立證の困難なこの故意犯を罰するだけでは足れりとせず、過失犯をも同等の刑をもって處罰する必要を現実の問題として把握したのである。すなわち、從來の刑事責任の概念理論を打ち超え、現実に即應し環境に適應して新に認められたものである。これもまた、プラグマティズムの思想に基くものと言わねばならぬ。(三)さらに、公職又は教職の追放を受けた者に對し、退職當時の勤務先への出入及び選擧管理委員會への事務所への出入を禁止しこれを處罰する旨が規定された(昭和二二年勅令第一号第一三條、第一五條第五項、第一六條、昭和二二年政令第六二号第七條、昭和二一年勅令第三一一号第二條、第四條)。從來の觀念的な考え方では、一定の場所に出入することが悪いのではなく、出入りして勢力温存・選擧關與等の行動をすることが悪いとさるべきである。李下に冠を正し瓜田に靴を入れるのが悪いのではなく、李も取り瓜を盗むことが悪いとさるべきである。(ただ古人は、人の疑を招くような行動を愼しめとの趣旨をもって、李下に冠を正さず瓜田に靴を入れずと教えたのみである)。しかるに、前記規定においては、舊勤務場所等への出入すなわち李下に冠を正し瓜田に靴を入れることそのものを所罰の對象とした。扉を固く閉じた中の會談の内容については、到底外部からは知り得べくもないが、或る場所への出入は誰でも容易に目撃することができる。この眼で見得る事柄を端的に捉えて處罰の對象とすることは、実際的に事を處理する上においては、簡明直截であり便宜に適することは言うをまたない。觀念的な理論に執着すれば、出入により行われる言動の内容を調べないで、出入そのものを處罰するは早計であるとも思われようが、現実的な実践的見地からすれば、これが最も時宜に適することは、經驗の示すところとして認められたものであると言わねばならぬ。かくて、これもまた、プラグマティズの思想に由來するのである。(四)さて次は、本件に關する所持の問題である。終戰後、有毒飲食物の所持・銃砲等の所持・進駐軍物資の所持・麻藥の所持・大麻の所持が、別段何等の目的要件を伴わず單純に處罰されることとなった(有毒飲食物等取締令第一條、第四條、銃砲等所持禁止令第一條、第二條、昭和二二年政令第一六五号第一條乃至第三條、麻藥取締法第三條、第四條、第五八條、大麻取締法第三條、第二四條)。これの法令が、所持の開始する製造・買取・譲受・その他の收受を禁じ、また所持の終了する販賣・譲渡・その他の處分を禁ずる外に、特にその中間に位する所持をも禁じているのは、收受や處分のごとき性質上各一回生起的な事実を捉えて處罰の對象とするだけでは足れりとせず、むしろ端的に容易に眼で見得る現実における在るがままの姿である所持の状態を捉えて處罰することが、実際において遥かに簡明直截であり実用的・能率的・合目的的であるとの考慮に出たものであると言わねばならぬ。言いかえれば、經驗上一番明確で動かぬしかも最も捉え易い事象(所持)を處罰の對象とすることによって、現実的に法の目的の達成を簡易・迅速・的確ならしめんとするものでまさに刑罰法の領域におけるプラグマティズムの思想の現れである。しかるに、多數説のごとく各場合の諸般の事情に從い社會通念によって所持の數を決定し、これによって所持罪の罪數を定めようとする考え方は、全く舊來の観念論的思考の範圍を一歩も出ることができないものである。かくては、過去におけるあらゆる所持の形態・静止・變動の經歴的事実を審理し探求し確定しなければ、所持の數従って所持罪の数は定まらぬこととなる。しかも、多数説の所持の數を決する基準は、前に述べたとおり甚だ不明確な漠然たるものであり、つきつめると所持の數を決する社會通念というようなものは全く架空の觀念の産物たるに過ぎず、実證的に実感として現実にはどこにも存在しないものである。それ故、多數説の考え方は、折角プラグマティズムの精神に從って簡易・明確・迅速な所持罪の處罰を規定した立法の趣旨に背反し、解釋の名においてわざわざ複雜・不明確・煩瑣な、そして殆んど何等の実益なき手續を強うるものである。從來の日本は、あらゆる方面において觀念論的の考え方が強かった。これが過去日本の著しい通弊であったのだ。將來の日本は、各部面においてもっともっと実證的・実践的・現実的・プラグマティックの態度が強く要請されている。これが再建日本の輝やかしい旗印である、と私は確信する。

それはさておき、ここにわれわれは、所持を罰する法令の目的と趣旨にピッタリ適合するような簡明直截でありそして同時に実情にそう理論構成をもつ解釋を打ち建てなければならぬ所持罪は、前述のとおり状態犯である。状態は常に一定の時を基準としてのみ具體化する。從って、状態犯を具體的に處罰するに當っては、一定の時を基準として觀察することを要する。まず、ある一定時において、空間的の横の關係において存在する同一犯罪の對象たる數多の目的物についての各所持は一體的の所持として眺めることができる。次に、時間的の縦の關係において各目的物についての所持は、それぞれ繼續的・一體的の所持として眺めることができる。次に、さらにこの縦の關係と横の關係を連結すれば、數多の目的物についての各所持とこれらの各所持にまで中斷することなく繼續する過去における各瞬間毎の各所持は、統一ある姿に纏められた一體的の所持として觀察することができる。それは、恰かも粹な江戸前の小料理屋の入口に垂れ下がっている長く短くずたずたにすり切れた年を經た縄のれんを、外ずして天地を倒まに置いたような一體の姿である。理解の便宜のために圖に示してみよう。(図省略)

見えるとおり縦縄は長短こそはあるが、何れも一筋の横縄によって連結せられて、縄のれんとして一體化しているのである。この縄のれんのどの部分を摘まんで引っ張ってみても、全體がついて動いて來る。私の理論構成による一體の所持とは、丁度これと同じ形態のものである。その各所持のいかなる部分を捉えて引っ張ってみても、常に一體としてついて來るその全體を一體化した所持として把握するものである。この結論は、至極簡單明瞭であって、所持罪の本質にも適合し、所持罪を處罰する立法趣旨にも妥當し、実際的處理に多くの無用な手數を省き極めプラグマティックな解釋を提供するものである、と私は信ずる。そして、右一體の所持に屬せざる所持は、ある一定時における所持罪の一罪中には包含されることなく、他の一定時における所持罪の別の一罪中に包含さるべきものである。かく解すれば、一定時における所持罪の一罪中に包含せらるる所持がたまたま審判の網の目に漏れ一事不再理の原則により處罰を免れるようになるとしても、それはその一定時につながる過去の所持だけに限られるわけであって、その一定時の次の瞬間以後における所時は、他の一定時における所持罪の別の一罪中に包含され將來處罰を受けることとなるから、簡明に所持を罰して所持を絶滅せしめんとする立法の趣旨と実情に適合するものと言うことができるのである。

そこで、この一定時は、一應まず第一次的には公判請求において示される所持の時が標準とされる。しかし、檢察官は起訴後においても。起訴された犯罪事実の同一性を害せざる範圍において、所持の基準たる一定時を變更することができる。また裁判所も同様に、事件の同一性を害せざる限り、檢察官の意見に拘束されることなく自ら自由に、審理の全過程を通ずる実体形成によって、所持の基準たる一定時を定めることができる。されば、結局最後的には、裁判所の判決において示される所持の一定時を基準として、前に詳しく述べた一體の所持が認識せられ、所持罪の一罪の範圍を畫するものとして處罰されることとなるわけである。

さて、本件原判決においては、被告人が昭和二二年一一月一五日頃千代田區神田須田町一丁目一六番地中野物産株式會社内において進駐軍物資たるペニシリン九五本を所持し、同月二五日頃中央區西銀座八丁目四番地オーキット商店内において進駐軍物資たるナイロン靴下二八足を所持した事実を認定した(公判請求は、昭和二三年三月一六日である)。そして、別の第一事件として被告人が昭和二二年一〇月七日における進駐軍物資の不法所持により東京地方裁判所において有罪の判決を受け控訴せずして確定した事実をも認めた(この公判請求は、昭和二二年一二月一三日、判決言渡は同月二七日)。それ故前記第一事件の所持罪の一罪は、昭和二二年一〇月七日を基準とするすべての數多の目的物についての所持を包含し、同月以前における第二物件の目的物の所持については、一事不再理の原則の適用があって重ねて處罰を受けることがない。しかし、本件において問題となった所持は、昭和二二年一一月一五日頃を基準とする所持及び同月二五日頃を基準とする所持であって共に第一事件における所持罪の一罪中に包含せられない所持である。從って、かかる所持には一事不再理の原則の適用がないことは明白である。しかるに、原判決はその適用があるものとして免訴の言渡をした違法があり、結局上告は理由があるから、破棄さるべきものである。

なお、辯護人は、憲法第三九條に「何人も既に無罪とされた行爲については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について重ねて刑事上の責任を問はれない。」とある規定を根據として、本件のごとく控訴審で被告人が免訴の言渡をうけた場合において、国家公益の代表たる檢察官が上告して右判決を破棄して事実審に差戻を求め更に事実審理を求めることは、被告人が二重危殆に置かれるから違憲であるかの主張を述べている。しかし、被告人の危殆は、一事件の最初から最終までの繼續した状態である。被告人が二重危殆に置かれないということは、既に一度裁判された以上、もはや新しい別個の事件として重ねて審判を受けないことを意味するものであって、同一の事件の上級審において二度審判を受けないという意味を有するものではない。(そして、辯護人は、米国憲法修正第五條に關する米国最高裁判所の一九〇四年ケップナー對合衆国事件の判決を援用しており、右判決は一應辯護人の主張を支持するに足るもののごとく見えるのである。しかし、該判決には當初からホームズ判事外二名の反對意見が附せられてあり、一九三七年のパルコ對カネティカット州事件の新判決において、ホームズ判事等の少數意見の趣旨が認められるに至ったと解せられている。)

裁判官齋藤悠輔の本件理由に對する意見は次のとおりである。

所持罪は、以前からありふれた犯罪であって(例えば明治一三年太政官布告第三六號舊刑法第二四二條、明治一七年太政官布告第三二號爆発物取締罰則第六條、刑法第一四〇條参照)、刑法学上古くから論じ盡されているいわゆる繼續犯に屬し、或る物に對する実力支配に着手した犯人が、多少の時間その支配を完成繼續することにより犯罪成立し、爾後その実力支配を失うに至るまで同一の犯罪持續する犯罪を指すものである。それ故一個の所持罪成立後同一目的物に對しその所持を失わない限り單一の所持罪あるに過ぎないけれども、所持罪が一個なりや數個なりやは、專ら所持罪成立の時を標準として、その成立時の個數に依るべきである。すなわち所持罪の個數は、或る物に對し社會通念上実力支配完成したと認むべき犯罪事実発生の回數に依り算定すべきものである。例えば同一人が同時に數個の物に對し実力支配を完成したときは、その目的物の個數にかかわらず一個の所持罪成立するに過ぎないけれども時を異にして一個宛數回実力支配を完成したときは、數個の所持罪ありといわねばならぬ。されば原判決が「不法所持の包括性」と題し、取得の時期や處分の時期が異っても取得後の或る時期において同一人の支配に置かれた物を総て包括して一個の所持の對象たるに過ぎない趣旨の説示をしたのは、所持罪がその実力支配の完成に依って成立するものであることを看過し、既に成立した數個の所持罪が單に競合して持續する或る時期における状態を捉えて「同時に同一人の支配内に置かれた」一個の所持罪に過ぎないと誤認する見解であるといわざるを得ない。また、原判決は「所持の繼續性」と題し「人が物を支配する状態の繼續中にその所持の場所、目的、保管方法等の變化が生じてもその所持は繼續する一個の所持である」と説明しているが、しかしその見解は、かかる變化を生ずるときは物が社會通念上「支配外に離脱」し從って所持が失われると見るべき場合あることを看過した説であるのみならず、かかる所持の繼續性は同一目的物に對し完成成立した單一所持罪についてのみ通用するもので競合して持續する他の別個の所持罪に對し適用すべきものでないこと前述の理由により明白なところといわねばならぬ。

されば原判決がかかる誤った法律見解の下に本件所持罪並びに判示第一犯罪における各對象物資に對しその所持罪成立、繼續の具體的事情、詳言すれば、本件所持罪が最初から又は後に至って前の事件の所持罪とは別個に、成立して單にこれと競合して持續する一個又は數個の所持罪であるに過ぎないか否か等の所持罪成立上の具體的事情並びに既に成立して單に競合持續する數個の所持罪の一部たる一個又は數個の獨立した所持罪(一罪の一部ではない)が或る事情により支配外に離脱したのみで、本件所持罪は依然として持續しているのであるか又は本件所持罪も同時に支配外に離脱し單に前の事件の所持罪と別個に新に成立したに過ぎないものであるか否か等の所持罪繼續上の具體的事情等を精査確定することなく、漫然包括一罪として免訴の言渡をしたのは、結局法令の誤解に基く事実不確定の違法あるに歸する。蓋し、わが刑事訴訟法における確定判決を理由とする免訴の判決は、いわゆる一事不再理すなわち訴訟手續上公訴の請求に關する実體審理を停止又は廢止して訴訟手續を打切りこれを再び行わないという意味における訴訟手續上の形式判決ではなく、犯罪成否の実體を徹底的に審理した上既に前に爲された公訴の請求に對する確定判決の効力すなわち有罪、無罪又は免訴の判決の既判力を「免訴」なる形式を以て再確認する公訴の請求に關する実體判決を指すものであり、從って免訴の判決を爲すには、請求に對する実體審理を行い、その事実を確定するのが先決問題であるからである。されば、本件上告は、その理由があって原判決は破棄を免れない。

よって舊刑事訴訟法第四四七條第四四八條ノ二に從い主文の通り判決する。

この判決は裁判官真野毅、同齋藤悠輔の各少數意見を除き裁判官全員の一致した意見である。

(裁判長裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上 登 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介)

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